観光サイクリングin水戸の下見に行ってきました。
水戸駅北口を降りると水戸黄門像。(南口には納豆像がありますのでお時間ある方はお立ち寄りください)
水戸と言ったらやはり水戸黄門ですよね。水戸黄門こと徳川光圀は水戸藩第2代藩主。若い頃の光圀はいわゆる不良だったようで、派手な格好で不良仲間と出歩き、気に入らないことがあると刀を振り回したそうです。吉原遊郭に頻繁に通い、弟たちに卑猥なことを教えたり、さらには辻斬り(武士などが街中などで通行人を斬りつけること)を行うなど、やりたい放題だったとか。
転機は18歳の頃に司馬遷の「史記」を読み、感銘を受けて勉学に励んだそうです。
水戸は提灯の名産地のひとつで日本三大提灯に数えられています。
水戸(水府)の他は岐阜と八女(福岡)です。
水戸黄門神社は光圀公の誕生地、寛永5年(1628)にここで生まれました。
水戸黄門を祀るのは常磐神社ですが、誕生地にもコンパクトに神社は建っています。
水戸城の歴史は平安時代末期まで遡れるようです。江戸時代の水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸定府大名だったため、水戸城が藩主の居城として使われることは少なく、城内の建築物が質素だったようです。幕末から明治維新にかけての天狗党(改革派)と保守派の動乱、明治に入ると廃城令、明治5年には放火、太平洋戦争の水戸空襲によって建物の多くが焼失してしまいました。
現在は復元が進められていて、二の丸には美しい白壁が整備されています。
二の丸には「大日本史」の編纂が行われた彰考館が建っています。彰考館発足は1657年に江戸駒込でしたが、1697年に二の丸に水戸彰考館を発足、明治以降は偕楽園に場所を移し明治39年(1906)に大日本史は完成しました。昭和20年(1945)の水戸空襲により4/5の史料が灰になったそうです。残った史料の多くは常磐神社に収められています。
大手門は2020年に復元。江戸時代初期の様式で大きく立派な門。
第9代水戸藩主の徳川斉昭によって作られた弘道館は日本最大の藩校として有名です。
創建当時の姿が残る正庁。
「弘道とは何ぞ。人能(よ)く道を弘(ひろ)むるなり」
「人の生きる道は、自然に広がるものではなく、人が努力して広げていくもの」という意味になります。
水戸学といったら尊王攘夷。
水戸藩の藩医が書いた「尊攘」が迫力のあるお出迎え。
徳川斉昭自筆による扁額「游於藝(芸に遊ぶ)」。論語の一節から「文武にこりかたまらず悠々と芸をきわめる」という意味が込められています。「藝」は六芸(りくげい)で、礼(礼儀作法)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書(習字)、数(算術)を指します。
要石歌碑拓本も徳川斉昭の筆。
「日本古来の道徳は永久に変わらないものであるから、日本人である者はこの道を踏みちがえることがあってはならない」という歌意になります。飾られている至善堂は徳川慶喜が大政奉還後の明治元年(1868)、4ヶ月間の謹慎生活を送っていたところで、慶喜が幼少期に学んでいた部屋。
徳川斉昭は「家臣たちが毎日米が食べられるのも、農民の重労働のおかげであるから農民を尊敬せよ」と説いたそうです。農人形と呼ばれる小さい人形を作り、食事の度に米を捧げて感謝しました。
水戸学の礎となった「大日本史」。徳川光圀(黄門様)が中国の史書にならって「紀伝体」という編集形式をとりました。明暦3年(1657)にはじまり明治39年(1906)まで250年という永い年月をかけて完成。実際の水戸黄門は諸国漫遊をした記録はなく、大日本史の編纂に携わった儒学者たちが全国に資料を求めたことから諸国漫遊した話が作られたのでしょう。
幕末になって講談師がこれらの伝記や十返舎一九作の滑稽話「東海道中膝栗毛」などを参考にして「水戸黄門漫遊記」を創作したと考えられています。その後、映画の題材としてヒットし、さらにTBSテレビドラマで東野英治郎が演じる黄門様でお茶の間に定着しました。
水戸学の初期は儒学の色が強いですが、幕末にかけて「内憂外患」の社会情勢もあり極右色が強い過激な思想となっていきました。
昭和7年(1932)に完成し平成11年(1999)まで稼働していた水戸市水道低区配水塔。なんとも美しいですね。
明治7年(1874)に弘道館なきあと徳川斉昭の「文武不岐」の精神を伝えるべく道場が開かれました。太平洋戦争の水戸空襲により焼失しますが、昭和28年(1953)に再建され水戸市有形文化財に指定。剣道、居合道、なぎなた及び北辰一刀流剣術、新田宮流抜刀術を修練する道場です。
藤田東湖生誕地。父は藤田幽谷(後期水戸学の中心人物のひとり)、子は藤田小四郎(天狗党のリーダー格で武田耕雲斎とともに天狗党を率いました)。藤田東湖は徳川斉昭の右腕であり、著書「常陸帯」「回天詩史」により日本全国に大きな影響を与え明治維新のうねりを起こします。
昼食は水戸で人気の「蕎麦処みかわ」さんで。
超人気なので開店前から並ぶ予定です。
料理、内装、器の全てが素晴らしいです。
昼食後は保和苑へ。二十三夜尊は天和2年(1682)の開山。元禄7年(1694)、徳川光圀公の命令により保和院と改称。明治11年(1878)年、火災により焼失しましたが、その後に本堂・仁王門・愛染堂などが再建されました。
回天神社の社名は藤田東湖の著書『回天詩史』に由来します。幕末の動乱期に殉死した水戸藩士を中心とした志士を祀っています。
回天館は天狗党の志士が降伏後に押し込められた鰊倉(にしんぐら)の1棟で、明治維新から100年後に敦賀市より譲り受け天狗党の資料などを展示しています。元治元年(1864)、尊王攘夷の志半ばにして幕府に降伏した天狗党の志士800余名は、敦賀にあった16棟の鰊倉に押し込まれ残酷非道の処遇を受けます。
真冬の北陸で下帯一枚の裸にされ、木製の足枷を嵌められ、一日の食事もにぎりめし一つと白湯だけでした。5〜60人が押し込められた鰊倉一つの中央には排泄桶が一つだけ置かれ、元々がニシンの肥料倉だったという事もあり悪臭が常に立ち込めたそうです。このため暗闇と栄養不良、不衛生、極寒と相まって、劣悪な拘禁によって処刑される以前に20名以上が死亡するという残虐な拘禁環境でした。扉や板壁などには、拘禁されていた人々の血書の文字が散見されています。その後天狗党の降伏者たちは353名が死罪となり、斬首されており幕末でも最大の虐殺劇となりました。
この鰊倉は常磐神社境内から平成元年(1989)に移築されました。
元治元年(1864)の筑波山挙兵に関係した尊王攘夷の志士達(天狗党)が、志半ばに各地で処刑されたため、明治3年(1870)にその遺体を集めてこの地に埋葬。その後、昭和8年(1933)には地元有志によって安政の大獄以後の殉難者と合せて1785柱の忠魂塔碑が建てられました。
水戸商業高校旧本館玄関は明治37年(1904)築のベルサイユ宮殿風な校舎。
旧川崎銀行水戸市店は明治42年(1909)築の洋館銀行建築。
水戸芸術館タワー(スネークキューブ)は1990年に完成。水戸市制100周年を記念して地上100mの高さになっています。パネルはチタンです。設計は磯崎新氏。
近未来的な内部をエレベーターで上がると86mの展望室へ。
円い窓からは絶景が楽しめます。
旧水海道小学校本館は明治14年(1881)築の擬洋風建築の傑作。宮大工が横浜の洋館をスケッチして建てたのですから凄いことですね。昭和46年(1971)に水海道市から移築されました。
内部も見学できます。
茨城県立歴史館の敷地には、明治32年(1899)から昭和45年(1970)まで茨城県立水戸農業高等学校がありました。この建物は旧校舎本館を復元したものになります。
いよいよ日本三名園の偕楽園へ。表門(正門)から入る予定です。
徳川斉昭によって造園された偕楽園には「領内の民と偕(とも)に楽しむ場にしたい」と願った想いが込められています。文武修業の場(一張)である「弘道館」と修業の余暇に心身を休める場(一弛)である「偕楽園」は、相互に補完しあう一対の教育施設として創設されました。
「好文」とは梅の異名。晋の武帝の「学問に親しめば梅が咲き、学問を廃すれば咲かなかった」という故事にもとづいて斉昭が名づけたそうです。昭和20年(1945)の水戸空襲で全焼しましたが、昭和30年(1955)から3年をかけて復元され現在に至っています。設計も斉昭がしたそうで設計図(模写)も残されています。
襖絵は昭和20年の水戸空襲で焼失し、現在の襖絵は昭和30年から同33年の復元工事で東京藝術大学日本画教官であり、昭和を代表する二人の日本画家、須田珙中(1908~1964)と田中青坪(1903~1994)が植物にちなんだ部屋名にあわせて描きました。
襖絵を鑑賞するだけでも楽しめますよ。
西塗縁広間の天井は網代張り、仕切り戸は竹篭目紗張り。
好文亭は3階建になっており見事な眺望を楽しむこともできます。
外観。
吐玉泉(とぎょくせん)は徳川斉昭が偕楽園造成に当たり地形の高低差を利用して集水した湧水泉。この水は眼病に効くといわれ、茶の湯にも供されました。泉石は常陸太田市真弓山の大理石。現在の泉石は4代目で昭和62年(1987)のもの。
梅が有名な偕楽園ですが、孟宗竹林も見所です。偕楽園開園1年後に京都の竹を土のついたまま運び植えられたものが現在に至っています。弓などの武具、茶道・華道の用具、建築資材として利用されました。グッチのバンブーハンドルのバッグも1947年の発売当時は京都の竹が使われていたそうですから、世界的に見ても竹といったら京都なのでしょう。
徳川光圀と徳川斉昭を祀る常磐神社。創建は明治6年(1873)で社殿の造営は明治7年です。
元々の千波湖は旧那珂川の堆積物によって堰き止められた沼地(堰止湖)。江戸時代に水戸藩が城下町の整備のため沼地を護岸したため現在の姿になっていきました。整備前は3倍広かったそうです。またダイダラボッチ(巨人)が指で沼を作ったという伝説も残っています。水戸近くの大串貝塚ふれあい公園のダイダラボッチは有名で、奈良の大仏より大きい像が鎮座しているくらいです。茨城県では「デーダラボウ(県央・県西)」「ダンデェさん(稲敷市)」「大田魔人(利根町)」などと呼ばれていたそうです。
水戸のパティスリー「ルブラン」のオーナーシェフ磯崎啓一郎さんは、駒込のフランス菓子店カド(cadot)からキャリアをスタートし、1982年に水戸でルブランを開店。カドの高田壮一郎氏は日本人の菓子職人として戦後初めてフランスで修業を積んだ留学生第1号(1956年)。1960年に東京カドを創業、日本におけるフランス菓子の第一人者であり、本場フランスの貝型のマドレーヌを日本で初めて販売した店。残念ながら2017年に閉店しました。磯崎さんは高田さんの系譜を受け継ぐ凄いお方なのです。立ち寄ることができて感慨一入でした。
東京カドも日本人向けに味を調整していましたが、ルブランも地元の方に合わせたケーキを作られています。人気のモンブランも土台がプリンという構成になっています(一般的にはメレンゲかタルトかスポンジ)。ケーキ屋さんでお買い物のあとは近くで食べる時間をとりますので、ケーキ購入予定の方はフォークやスプーンをご用意ください。
オセロは水戸市出身のボードゲーム研究家の長谷川五郎さんによって1970年頃に開発されました。1883年にロンドンで開発されたリバーシに似ているそうなのですが、長谷川さんが参照にしたのかは不明なようです。
最後は水戸納豆です。水戸天狗納豆(株)笹沼五郎商店さんでお買い物。
2階には納豆に関する展示スペースがあり勉強になります。
お土産に「わらつと納豆」をどうぞ〜!
こんな流れの水戸サイクリングツアー。ご興味のある方はお気軽にご参加くださいませ。