2024年最初の観光サイクリングツアーは東松山。
2014年、2017年と過去2度開催し、6年ぶり3度目の開催となりました。
パチパチパチ〜!
歳を経て勉強しているせいもあってか、過去2度訪問した時とは見え方がだいぶ変わりました。観光スキルがレベルアップしているということでしょう。
さて、東松山の地名由来。当初は「松山市」で申請したようですが、愛媛に松山市があったため自治省が認めず「東松山市」という落とし所となったようです。例外があって「若松市」「府中市」は認められており、東松山市と同じように「東久留米市」「東大和市」「北広島市」「京田辺市」は認められませんでした。ただし東松山は「松山高校」「松山神社」など東を冠さない名称ばかりなので、年配の方は「松山」と呼ぶ人が多いそうです。東長崎も九州の長崎が先にあったので東をつけたようです。
東松山と吉見町を巡りますよー。
まずは、
岩窟掘ってる、岩窟掘ってる・・・岩窟ホテル!
発見当初はコロボックル「土蜘蛛」の住居説が唱えられました。東京都文京区弥生町で明治17年(1884)に東京大学予備門の学生だった有坂鉊蔵が壺型土器を発見。先輩の坪井正五郎に土器を預けてしまったが故に、手柄を全てかっさわれてしまったー。というのが弥生式土器からの弥生時代という名称がついたストーリーです。なお坪井先生が亡くなったのはロシアのサンクトペテルブルクです。随分と遠いところで・・・
あら〜、ヒカリゴケは見えるのかしら〜♪
吉見町は、イチゴ、百穴、川幅日本一の3点セットが売り。
山腹で地団駄踏むとポンポンと鳴るポンポン山の山頂。
ポンポン山からダウンヒル!
吉見町は横穴墓の聖地だと思う。
吉見百穴より規模が大きい黒岩横穴墓群もあったりする。
岩殿山安楽寺(吉見観音)は源範頼ゆかりのお寺。
源頼朝の弟であり、源義経の兄ですね。お母さんは違えど。
この仁王像は元禄15年(1702)のものと推定されています。力強い人相と肋骨感がアートですね〜。
こちらの三重塔は350年前のもの。見事な木組みで端正です。
光明寺のある場所は源範頼館跡と推定。
彫刻が見事です。大里郡の飯田岩次郎の作品とされているようです。明治期に精巧に彫られた文化財ですね。
川越氷川神社、東松山市箭弓神社など手掛けた名工。
この彫られたものは、劉備・関羽・張飛の3人が宴会にて義兄弟となる誓いを結んだ「桃園の誓い」でしょうかね?
昼食は「味のきんせい」さんで。吉見町は飲食店が少ないので待ち時間長めでした。
名物はジャンボ餃子。丁寧に手作りされているのが分かるお味。
私は坦々麺もいただきました。本格中華というよりは町中華というお味。
そんなテイストも良いと思います。御馳走様でした!
板碑界の横綱クラスの作品。頭部が欠損しているのが残念ですが、この板碑の作者は凄い人だと思います。
川幅日本一もきっちりと立ち寄りました。
埼玉県は煉瓦造り樋門がとっても多い。
全国を見渡してもこのエリアだけなのですけど、深谷市で大量に煉瓦が焼成されてたのが関係しているのですねー。
江戸時代に建てられた岩室観音。松山城の山麓に守り神のように鎮座しています。
松山城は室町時代に古河公方・山内上杉氏・扇谷上杉氏でバチバチし、戦国時代に北条・上杉・武田で奪い合った地政学的に重要な平山城。
岩室観音の裏には胎内くぐり。
ラブ注入。生まれ変わったー。家庭に平和が訪れますように。
突っ張り棒で建物を支えているのがとっても良い。
空堀&土塁がダイナミックな松山城。北条氏って勢いがあったんだー、再確認。
御先祖が吉田松陰の門下生で山口県萩市出身。明治に入って皇室とともに上京し、この地の開発に協力し、後にお菓子屋として創業し110年も経つ老舗の富久屋さんでお土産を購入。
牡丹だんご美味しい。
五色幔幕が映える良心的な和菓子屋さんです。
サクッと東松山をサイクリングしてきました。来月は土浦です。しっかり研究してツアー当日を迎えますね〜!頑張りマス。