観光サイクリングは横浜の市が尾です。
溝の口~長津田間が開業した昭和41年(1966)以降の宅地開発などで弥生時代や古墳時代の遺跡が発見されます。現在でも多くが保存される都心近郊屈指の歴史的に貴重なエリアです。サイクリングの距離は短めですが、細かいアップダウンは多いので運動不足解消にはもってこい。歴史探訪を中心に絶品グルメも楽しみましょう。
まずは市ヶ尾横穴古墳群に向かいます。昭和8年(1933)に発見された計19基からなる横穴墓(おうけつぼ)。古墳時代末期に造られた有力な農民の墓ではないかと考えられています。横穴墓は、大化の改新(645年)の翌年(大化2年/大化は日本最初の元号)に規定された薄葬令の前後から急激に増えます。薄葬令以降、前方後円墳などの大型の墳丘墓も小型簡素化され古墳時代は終焉を迎えるようになります。豪族の権力の象徴として古墳は造られたと考えられていますが、全ての土地と人民は天皇に帰属するとした公地公民制の推進の一環として薄葬令は規定されました。
大化の改新について補足。豪族のドンであり実権を握っていた蘇我入鹿を、中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)が暗殺した乙巳の変(いっしのへん)により、豪族を中心とした政治から天皇中心の政治に移り変わります。翌年の改心の詔(かいしんのみことのり)により政治の方針を示し、大宝律令(701年)で日本の律令制は確立します。
さて、市ヶ尾横穴古墳群の内部も見学しましょう。
崩落が進んでおり補強されていますが、構造はしっかりと観察することができます。棺のあった玄室と通路部分の羨道(えんどう・せんどう)の構造で造られています。この構造は、古墳の埋葬方式である横穴式の石室と同じです。
次は近くにある稲荷前古墳群へ。昭和42年(1967)に宅地造成中に発見された大規模な古墳群です。現在では3基のみの保存となっていますが、住宅地として消滅する前は、前方後円墳・前方後方墳・方墳・円墳の10基と横穴墓9基からなる圧巻の古墳群で、4世紀から7世紀にかけて造られました。都筑の地を治めた首長の墓と見られています。
保存されている中で一番の見所は、この前方後方墳。四角と四角からなる古墳。
全国的にも少々珍しい形です。
旧旅籠「綿屋」は明治15年(1882)の建築。明治末まで営業しており、2階に客を泊めたそうです。江戸時代の一般庶民は、商用や寺社参拝などの限られた目的の旅しか許されていませんでした。江戸中期以降に参詣ついでに物見遊山も兼ね、江ノ島・鎌倉・大山・富士山・成田山・伊勢参りなどに出かけるようになります。特に人気だった大山詣。参詣の時期になると江戸っ子は、両国橋東の垢離場で水を浴びて体の汚れをとり、神田明神に参ってから、大山道を通り荏田宿〜長津田宿が1泊目となりました。この旧旅籠「綿屋」は往時を偲ぶことができます。さて大山詣では、荏田宿〜長津田宿で宿泊後、2泊目は伊勢原の宿坊に泊まり、翌早朝から登山する行程が多かったようです。帰路は東海道を通り江ノ島や鎌倉を見物してから江戸に帰るコースが人気だったとか。ハードなものでは大山詣後に富士山をセットで登拝することも多かったそうです。大山の祭神である大山祇大神(オオヤマツミ)は富士山の祭神である木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)の父であるとされたため、大山と富士山の両詣りが盛んに。「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」といわれたそうです。
市が尾の周辺は丘陵が多く細かいアップダウンを強いられます。鶴見川沿いのサイクリングはフラットですので快適。やや遠回りしながら次に目指すは川和富士。
川和富士。富士塚です。
江戸時代末期に築かれましたが、現在の川和富士は港北ニュータウン建設のため移転されたものです。富士塚は、富士信仰に基づき富士山に模して造営されたもの。1780年に高田籐四郎という方が江戸の高田(現在の西早稲田)に造ったものが最初といわれています。富士塚に登拝することで富士登山と同様のご利益が得られるとして江戸時代の庶民に流行するのでした。
山頂への登山道の他にお中道も完備。富士山を模すのが富士塚の基本です。
公園などにトイレがちょこちょこあるので安心です。
川和富士の次は港北ニュータウンをひた走り。
茅ヶ崎城址に到着。空堀・曲輪・土塁が良好な状態で残っています。築城は14世紀後半〜15世紀前半と推定されています。鎌倉街道の中道のそばに位置し、中原街道や矢倉沢往還、小机城も見渡せる交通の要衝の地に自然の地形を生かして築城されています。平成20年(2008)に公園として整備され散策しやすくなりました。
中郭。建物跡らしき遺構があったり。
さて、ランチはベッカライ徳多朗。オシャレなパン屋さんです。
イートインだとドリンクも要オーダー。テイクアウトだとパンのみ購入可です。
この後にケーキ屋さんも立ち寄りますので、パン&ケーキの連続はキツイ・・・という方は、おにぎりを持参してパンを少々にするのも手かと思います。
少しオベンキョの時間で横浜市歴史博物館。
時系列で展示されていますので、タターっと見て回りましょう。
横浜市歴史博物館から道を挟んだ隣に大塚遺跡があります。弥生時代中期の遺跡(弥生時代は紀元前3世紀頃〜3世紀中頃まで)。昭和47年(1972)の発掘調査で存在が明らかになりました。弥生時代の大規模な環濠集落が完全な形で発掘されたのは極めて稀有な例なのです。竪穴式住居と高床式倉庫が復元されています。建物は縄文時代から平安時代まで使われていたよくある村の姿ですが、注目すべきはやはり環濠でしょう。村の周囲に堀をめぐらせ杭で村を囲みます。子供の頃に学校の授業などで、弥生時代に大陸から稲作が伝わり食料などを理由に争いが起きた。と教わりましたが、近年の発掘などで縄文時代から稲作が行われていたことが有力となっていますから、何らかの理由で弥生時代に入り治安が悪化したとみるのが妥当でしょう。脱線しますが、世界四大文明(エジプト・メソポタミア・インダス・黄河)というのも学校で習いましたけど、世界の歴史学会にはとうに否定されています。でもいまだに教科書に載っているらしいですよね。近隣諸国条項の弊害は大きいな〜。屋根にのっけてるシートはカラス対策だそう。
大塚遺跡のすぐ隣には歳勝土遺跡(さいかちど)。大塚遺跡に住んでいた人達の墓地。四方に溝を掘り、土盛りして墳丘を築く方形周溝墓。家族ごとの墓と考えられています。方形周溝墓が古墳の形のもとになっているのですね。
さらにすぐ近くには旧長沢家の古民家が移築されています。江戸中期頃の建物だそう。
内部も見学できます。広くて立派。
主屋と馬屋が平行に配される武蔵南部特有のヒロマ型がポイントなのだとか。
さぁ、デザートタイム。
このエリアで大人気のケーキ屋さんであるYUJI AJIKIさんに立ち寄ります。
近くの公園でいただきましょう。マイフォークorスプーンをご持参下さいませ。
こちらで紙皿&コーヒーor紅茶をご用意いたします。
ケーキを食べたら山田富士へ。またまた富士塚へ。
この塚は造成が見事です。綺麗なコニーデの形状、御殿場口と吉田口の登山道があります。新編武蔵風土記稿にも記されており、江戸時代の文政年間(1818〜30)には存在していた歴史ある美しい富士塚です。
荏田宿常夜燈は1861年建立。民家の庭の中にあるので撮影は最低限にしたいですが、大山街道の歴史を伝える貴重な常夜燈です。最後は大山街道を通り市が尾へ戻ります。東京近郊で歴史に触れるサイクリングをしましょう。ご都合がつく方は是非ご一緒に〜!