観光サイクリングin館林/入門
館林七福神めぐりも6つを消化したところですが、次はつつじが岡公園に立ち寄ります。
地理的な問題でトレースしやすいからですね。
現在のつつじが岡公園一帯を、室町時代にすでにつつじが崎の名で呼んでいたことが伝えられています。江戸時代に入り館林城主がツツジの移植と保護に尽力し領民遊覧のために拡張した歴史あるつつじ園です。
当時は酔いに乗じて枝を折ったり、花を持ち帰る者も少なくなかったらしく、江戸時代末期の館林藩主秋元家の時に「一枝を折る者は一指を折る」と言いふらし効果覿面だったのだとか。恐ろしいような気もしますけどね。ツツジの見頃はGW。大勢の観光客が訪れ賑わうつつじが岡公園です。今年は原因が特定できないけどあまり咲かなかったみたい。
GWを過ぎると遅咲きのリュウキュウツツジ、そして若葉が深くなるのを愉しむ感じになるのだけど、雑踏も落ち着いた躑躅のトンネルを散策しましょう。
昼食は館林名物のうどん!(お店は時間や混雑状況により変更する場合もございます)
お昼を食べたら七福神めぐりの7番目に訪れる茂林寺。1426年開山。インドの神で生産、豊作の神である大黒天様。説話で有名な「分福茶釜」ゆかりの寺でもあります。
総門から山門への参道には20体ほどの狸の像が参拝客を迎えます。狸といえば日本六古窯のひとつに数えられる信楽焼のものですが、信楽焼の狸の置物の歴史は比較的浅く、明治時代に陶芸家の藤原銕造氏が作ったものが最初と言われています。
「他を抜く」という精神で毎日努力し、社会に役立ち、商売が繁盛、家族仲良く、福を分けあう狸といわれ、お店の前などによく置かれています。
以下、狸の置物に込められた意味。下手な自己啓発本より簡素で深いですよ♪
「笠」災いから身を守るため、日頃の備えを。
「顔」人を立て、いつも笑顔で愛想よく。
「目」正しい目で物事を見極め、周囲に配慮を。
「腹」慌てず、騒がず、そして大胆な決断力。
「尾」事の終わりは私欲を捨て、大きく太くしっかりと。
「通」誠実な心が信用を得、人が通い実力がつく。
「徳利」毎日の食事に感謝し、腹八分で長寿を。
「金袋」身についた金運は、大きく広く活用する。
1394年から1428年の間に住職であった守鶴が愛用した茶釜で、一度水を入れると、一昼夜汲み続けても水がなくならないという伝説が伝えられています。
館林城の本丸があった近くに旧上州モスリン事務所と田山花袋旧居があります。
まずは旧上毛モスリン事務所。明治41〜43年にかけて建てられた木造二階建の擬洋風建物で上毛モスリン株式会社の本館の事務所として使われて来ました。
上毛モスリン株式会社は明治中頃、館林周辺の技術的伝統である機業を活かして設立された会社で、近代産業のひとつとして館林の発展に大きな影響を与えました。モスリンとは綿やウールなどの単糸で平織りした薄地の織物のこと。
館林出身の田山花袋。尾崎紅葉のもとで修行し、島崎藤村、国木田独歩、柳田國雄らと親交があった自然主義派の文豪。代表作は「蒲団」(赤裸々すぎる禁断の私小説)。
紀行文も素晴らしく、登山や旅が好きな人は惹き込まれることでしょう。
〜島崎藤村が田山花袋に贈った言葉〜
もう一度、田山花袋に帰ろうではないか。
あの情熱を学ぼうではないか。
あれほどのやせ我慢、不撓不屈の精神と、子供のような正直さと、
そしてまた虚心坦懐の徳とを誰が持ち得たろう。
わが友、花袋の熱心な文学生涯は明治24年の早い頃から、
およそ38年間の長い間に亘った。
彼こそは文学革新の父と呼べる人である。
田山花袋が6歳から14歳まで住んだ家。
旧秋元別邸。
この建物は明治時代後期に旧館林藩主秋元家別邸として建てられました。
庭園側がほぼ全面ガラスの引き戸で構成されているのが見所かと。
館林城の遺構は少なく土塁を観察できるぐらいですが、写真の土橋門などが復元され当時を偲ぶことができます。
本丸から駅に向かう途中にある武鷹館。
江戸時代後期に建てられた館林藩中級武家屋敷で、現在は移築され一般公開しています。
武鷹館から駅までも外池商店、旧二業見番組合事務所、毛塚記念館など歴史ある建物を見物することができます。路地裏をクネクネと散策し駅まで戻ります。
サイクリングしながら館林の名所を一緒に巡りましょう!