観光サイクリングin東京都心の銅像巡り

東京都心の銅像巡りをするサイクリング。皇居や上野公園などを巡ります。明治時代に入ってから西洋の街並みに影響され、東京都心にはたくさんの銅像が建っています。明治維新に関わった人物が顕彰されているケースが多いのですが、中にはあまり存じ上げていないかたもチラホラと。銅像巡りを通して、人物を知り、時代を捉える良い機会にもなりますよ。また美術品としても素晴らしいものが多く、制作に約10年かけた超力作もあったりするのです。凄いぞ銅像!また銅像には悲劇もつきもの。太平洋戦争時に金属供出のために多数の銅像が撤去されたり、戦後はGHQによって撤去されたものもあったり、人物の顕彰ということから「何でこの人が?」と賛否を呼んだりと、たくさんのドラマを生み出した銅像たちを自転車で巡っていきましょう。

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渋沢栄一像。
昭和8年(1933)に朝倉文夫(あさくら ふみお)の制作で設置。太平洋戦争時の金属供出で撤去されますが、昭和30年(1955)に再び朝倉文夫が制作し設置されます。

渋沢栄一(天保11年(1840)〜昭和6年(1931))は、江戸時代末期は武士として徳川最後の将軍である徳川慶喜に仕え、明治以降は官僚、そして実業家として多くの企業(500社以上)の設立や経営に関わります。第一国立銀行(現・みずほ銀行)、東京証券取引所、東京ガス、王子製紙、東京海上火災保険、秩父セメント、秩父鉄道、帝国ホテル、キリンビールなど多種多様な企業の設立や経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれます。理化学研究所の設立者でもあります。「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」と大正5年(1916)「論語と算盤」の著書の中で、「道徳経済合一説」という理念を打ち出しています。財閥を作らず、「私利を追わず公益を図る」という考えを生涯貫いた理念高き人。

渋沢は埼玉県深谷生まれ。文久元年(1861)に江戸に出てからは、儒学を学び、尊王攘夷の志士たちが集まる千葉道場で北辰一刀流を学ぶ。その当時は長州藩と連携して倒幕を画策したようです。その後の元治元年(1864)、一橋家に仕えます。慶応2年(1866)に、主人の一橋慶喜が15代将軍となり、渋沢も幕臣となるのでした。

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二宮金治郎像。

平成3年(1991)に設置。台座には「勤勉にて片時も本を手放さなかった二宮金治郎こそは、真に理想の読書人」と八重洲ブックセンター会長である河村金次郎のお言葉。設置当時は1枚100円で売られた金箔をペタペタと金治郎像に貼ったらしい。「歩きスマホ」を誘発するとして金治郎像にクレームがついている昨今ですが、銅像界のアイドルである金治郎像は日本全国の学校を中心に非常に数が多い。太平洋戦争時の金属供出で大量に撤去されたのにです。これは富山県高岡市の鋳物業社が日本全国の小学校などに営業活動をかけて販売されたことによります。戦前の国定修身教科書の全てに少年時代の金治郎は取り上げられ、「孝行・勤勉・学問・自営」の徳目を代表する人物として描かれています。大人になってからの農業に事績を挙げた二宮尊徳の「至誠・勤労・分度・推譲」という報徳思想も信奉を集めるようになります。明治天皇、勝海舟、西郷隆盛なども影響を受けたそうですから、日本全国津々浦々まで見習うべき人物として大いに尊敬を集めたことでしょう。

二宮尊徳(にのみや たかのり。通称・金治郎/天明7年(1787)〜安政3年(1856))は神奈川県小田原市生まれ。4歳の時に酒匂川が氾濫し家を失う。13歳に父を失い、15歳に母を失う。叔父の家に預けられ、土手に菜種を蒔いて油を採取し勉学に励む。という苦労時代が有名で、「負薪読書(ふしんどくしょ)」の銅像は、この少年時代の姿によるもの。大人になり小田原藩に仕え服部家の財務を整理し評判をなる。その後、栃木県真岡市農業指導を行い飢饉を免れるなど農業復興を実践。その後、小田原に戻り飢饉にある小田原の救済にあたる。晩年は小田原領外に出て農業指導を行い、栃木県今市で没する。

「経済なき道徳は戯言であり、道徳なき経済は犯罪である」という言葉が、報徳二宮神社の尊徳像に掲げられています。まさに二宮尊徳そのものを表しているのではないでしょうか。ちなみに二宮尊徳は巨漢である。身長180cm、体重94kgというのですから、金治郎像からはとても想像できません。

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太田道灌像。

昭和33年(1958)に朝倉文夫(あさくら ふみお)の制作で設置。江戸城築城500年を記念して建立。当初は東京都庁第一庁舎前に設置していましたが、平成3年(1991)に都庁が新宿移設、旧都庁跡に東京国際フォーラムが建設されたため、現在は東京国際フォーラムの屋内に設置されています。
太田道灌(永享4年(1432)〜文明18年(1486))は、室町時代後期の武将。この頃の関東地方は騒乱の時代で、亨徳の乱や長尾景春の乱で活躍。江戸城の築城、また歌人としても有名です。

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ゴジラ像。

平成7年(1995)にゴジラ生誕40周年を記念し小林知己(こばやし ともき)の制作で設置。すぐ脇には東宝にゆかりのあるスター達の手形も展示されています。
ゴジラは昭和29年(1954)生まれ。水爆によって巨大化し体長50mを誇る。

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ルーパ・ロマーナ像。

昭和13年(1938)にイタリアから寄贈されました。
ルーパ・ロマーナは「ローマの牝狼」という意味。古代ローマ神話に基づいた像です。幼い兄弟のロムレスとレムスは、祖父を殺し王位を奪ったアムリウスによってチベル河に流されましたが、忽然と現れた一匹の牝狼に助けられ、その乳を飲んで成長し、成人した兄弟は祖父の仇を討ちローマを統一したと言われています。

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ホセ・リサール像。

昭和36年(1961)に熊谷友次の制作で設置。1888年の滞日中、日比谷交差点付近の東京ホテルに滞在していたことから有志の尽力で設置されました。
ホセ・リサール(1861〜1896)は、メスティーソ(中国人とフィリピン人の混血)の家系として生まれ、フィリピンで医学を学び、さらに欧州で医学の研鑽を積む。また社会学も学び革命家としての活動も顕著になっていきます。1887年に出版した小説『ノリ・メ・タンヘレ』が反植民地的だとフィリピンのスペイン植民地支配層から問題にされるようになり、フィリピン帰国も思うようにならず香港などで眼科医として従事します。フィリピンに帰国してからは逮捕、流刑、そして35歳の若さでマニラで銃殺。リサールの処刑は反響を招き、彼の著書「我に触れるな」「反逆」の影響によってフィリピン人の間に独立への機運が高まっていきました。フィリピン独立運動に取り組んだ国民的英雄です。

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楠木正成像。

明治33年(1900)に設置。別子(べっし)銅山の創業200年を記念し住友財閥が銅像を献上しました。人物像の頭部は高村光雲(たかむら こううん)、身体部は山田鬼斎(やまだ きさい)と石川光明(いしかわ こうめい)、刀剣は今村長賀(いまむら ながよし)、馬は後藤貞行(ごとう さだゆき)、など多くの専門家が結集して制作されました。楠木像の刻文は品川弥二郎の依頼で岡本碧厳(おかもと へきがん)が担当。

楠木正成(永年2年(1294)?〜延元元年(1336))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。 後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、 建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に天皇を助けます。後醍醐天皇は、天皇親政によって朝廷の政治を復権しようとしますが、武士層を中心とする不満を招き足利尊氏が反抗します。楠木正成は南朝側の軍の一翼を担いましたが、湊川の戦いで足利尊氏の軍に破れて自害します。明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880)には正一位を追贈されます。南北朝の時代は、1336年 〜1392年の56年間続いたのですが、南朝を評価する転機になったのは水戸光圀の大日本史でしょう。この中で南朝正統論を唱えたことで、水戸学の尊皇精神が幕末の志士たちの支持も集め明治維新を実現させます。「なぜ北朝の明治天皇が南朝の楠木を愛したのか?」疑問は当時も噴出し、桂内閣が「南朝を正統」と決するという事態まで起こります。このような矛盾から、昨今の「明治天皇すり替え説」が数多く聞かれるようになります。真実は分かりませんけれども。

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和気清麻呂像。

昭和15年(1940)に佐藤朝山(さとう ちょうざん)の制作で設置。紀元2600年を記念し、民間から募金して建造されました。
和気清麻呂(わけのきよまろ/天平5年(733)〜延暦18年(799))は、奈良時代末期から平安時代初期の貴族です。46・48代称徳(孝謙)天皇(しょうとく/史上6人目の女帝)の寵愛(ちょうあい)を受け、力を持った僧侶の道鏡。道鏡は「道鏡を皇位に就かせたならば国は安泰である」とするお告げが宇佐八幡大神よりおろされた、と嘘をつきます。これを確かめるため和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣。出発に際して和気清麻呂は歌を作ります。

「西の海 たつ白波の 上にして なにすごすらん かりのこの世を」

(道鏡が立てた波風を上(天皇)にして現世をどうして過ごせましょうか)

清麻呂はこの宇佐八幡大神とするお告げは虚偽であると復命。道鏡の怒りをかった清麻呂公は、別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられて脚の腱を切られた上、大隅国へ流されました。流される途中、暗殺を謀って送られた道鏡の刺客から、突然の天地雷鳴や300頭あまりの猪の大群が和気清麻呂を護り、さらに宇佐へ詣でたところ、道鏡に傷つけられた脚が回復するなど、八幡大神のご守護により数々の奇跡がおきたそうです。

称徳天皇が崩御すると道鏡は力を失い、和気清麻呂は復位し、平安京の都造りにも携わるのでした。皇統の断絶という日本最大の危機を救った人物であります。

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お昼は神保町。カレーが有名なのでボンディさんで。美味しい!!!

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北白川宮能久像。

明治36年(1903)に新海竹太郎(しんかい たけたろう)の制作で設置。
北白川宮能久親王(きたしらかわのみやよしひろしんのう/弘化4年(1847)〜明治28年(1895))は、江戸時代末期から明治時代の皇族、そして陸軍軍人。明治天皇の義理の叔父に当たり、1654年から13代続いた最後の輪王寺宮(りんのうじみや)として知られています。輪王寺宮は簡単に言うと、皇族が徳川幕府に人質をとられたようなもので、上野の東叡山(東の比叡山という意味)寛永寺に常駐し、天台宗の最高指導者である天台座主も兼ねます(例外もあり)。時は明治に入り戊辰戦争が始まります。寛永寺に立て篭もった彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれ敗北、幕府海軍の手引きで長鯨丸へ乗り込み東北に逃避します。会津、米沢を経て仙台藩に身を寄せ、白石城へ入り奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されます。降伏まで白石城と天台宗仙岳院を行き来します。新政府軍に降伏し官軍に護送され京都へ行き処分を受ける。翌年に処分が解かれドイツへ留学しドイツ語の習得、軍事を勉強します。ドイツで未亡人ベルタとの婚約をするが明治政府は難色を示し帰国を命じます。婚約を破棄され、再び京都で謹慎することになります。明治28年(1895)、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征しますが、現地でマラリアに罹り薨去。皇族としては初めての外地における殉職者となりました。北白川宮家の不運は続きます。北白川宮家を継承した成久王は、陸軍大佐の時にパリで自動車事故により死亡。さらに孫の永久王も駐蒙軍司令部に勤務していた時に、訓練中に戦闘機に突っ込まれ死亡。3代続けて外地で亡くなるという不幸に見舞われた。皇族として生まれ、幼くして都を遠く離れた江戸の地で僧侶として過ごし、「朝敵」の盟主となって奥州の地を転々とし、後には陸軍軍人として台湾平定の英雄とされ、異国の地で不運の死をとげたことから日本武尊にたとえられたそうです。

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吉田茂像。

昭和56年(1981)に舟越保武(ふなこし やすたけ)の制作で設置。
吉田茂(明治11(1878)〜昭和42(1967))は、外交官であり、政治家であり、内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)である。戦後の保守本流の礎を築いた政治家でしょう。主権を回復したサンフランシスコ条約、日米安保を締結したことで有名です。

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大山巌像。

大正7年(1918)に新海竹太郎(しんかい たけたろう)の制作で設置。
大山巌(天保13年(1842)〜大正5年(1916)は、武士(薩摩藩士)、陸軍軍人、政治家。通称は弥助。西郷隆盛・従道(じゅうどう)兄弟は従兄弟にあたります。薩英戦争で西欧列強の軍事力に衝撃を受け、幕臣である江川太郎左衛門の塾にて砲術を学ぶ。そして射程距離を伸ばした「弥助砲」を設計。戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いや会津戦争などの各地を転戦。西南戦争では、従兄弟の西郷隆盛と戦うことになります。日清戦争では陸軍大将として第2軍司令官、日露戦争では元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務め、ともに日本の勝利に大きく貢献する。同郷の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われました。GHQ総司令官のダグラス・マッカーサーは、ナポレオンとともに大山巌を崇拝していたそうで、帰国の際にこの大山巌像を持ち帰ることも考えていたのだとか。

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品川弥二郎。

明治40年(1907)に本山白雲(もとやま はくうん)の制作で設置。
品川弥二郎(天保14年(1843)〜明治33年(1900))は、武士(長州藩士)、政治家。松下村塾に入って吉田松陰の教えを受けたことが大きい。吉田松陰が品川弥二郎を「温厚正直で人情に厚く、うわべを飾らない。抜きん出た能力はないが、心が広く奥深いのが優れている」と評したそうですが、まさにそんな生涯を送りました。薩長同盟の提携に関わり、戊辰戦争では御楯隊参謀として東北各地を転戦。日本初の軍歌とされる「トコトンヤレ節」の作詞をしたとして知られています。作曲は大村益次郎といわれています。

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大村益次郎像。

明治26年(1893)に大熊氏廣(おおくま うじひろ)の制作で設置。日本初の西洋式銅像とされます(金沢兼六園の日本武尊像とする説もあり)。顕彰文の揮毫は三条実美(さんじょう さねとみ)。
大村益次郎(文政8年(1824)〜明治2年(1869))は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となる。西郷隆盛は「兵術家として大村に優る人物はいない」と評しました。逆に大村は西郷隆盛を全く評価していなかった一人だそうです。明治時代に入り、兵部省の初代大輔(だいふ)を務めたことから、事実上の日本陸軍の創始者として見なされます。大村の進める兵制は武士を否定するため、それを恨んだ刺客に京都で襲われます。オランダ人医師のボートワンが懸命に治療しますが落命となりました。

さて、なぜ靖国神社に大村益次郎像があるかというと、靖国神社の前身である東京招魂社(戊辰戦争の官軍戦死者を祀る施設)建設に尽力したことが挙げられます。靖国神社の敷地内に大きな大村益次郎像があるのは不敬ではないかとよく指摘されますが、靖国神社の大鳥居(第一鳥居)は、鎮座50年を記念して大正8年(1919)に建てられたものであり、大村益次郎像が建てられている場所は参道の外苑部だったのです。明治時代には、この場所で競馬やサーカスなどにも使用されていたそうです。

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春日局像。

平成元年(1989)に高橋剛(たかはし ごう)の制作で設置。NHK大河ドラマ「春日局」が放送されたのが契機で設置されました。
春日局(天正7年(1579)〜寛永20年(1643))の本名は斎藤福。後に3代将軍となる徳川家光(竹千代)の乳母(うば)であり、 江戸城大奥の礎を築きました。「春日局」は朝廷から賜った称号です。

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嘉納治五郎像。

戦前(昭和11年)にも制作されましたが、戦時中に供出されたため、昭和35年(1960)に朝倉文夫(あさくら ふみお)が再び制作し設置。
嘉納治五郎(万延元年(1860)〜昭和13年(1938))は、講道館柔道の創始者であることから「柔道の父」と呼ばれています。また教育者でもあります。東京大学に入学した嘉納治五郎は柔術を学びます。理論を極める嘉納は独自の理論も加え柔術を「柔道」とするのでした。

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孔子像。

昭和50年(1975)に中華民国台北市ライオンズクラブからの寄贈。
孔子(紀元前551年〜紀元前479年)は、中国の思想家で儒教の始祖。儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより、五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教えます。日本では儒教は学問(儒学)として受け入れられ、江戸時代に林羅山が昌平坂学問所(現在の湯島聖堂)にて儒学を教えたことで、武家層を中心として儒学は日本に定着、水戸学などにも影響し、やがて尊皇攘夷思想に結びつき明治維新への原動力の一つとなるのでした。ちなみに昌平は孔子の生まれた地名であります。

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おやつタイム。湯島の「みつばち」さんは小倉アイス発祥のお店なのだ!

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西郷隆盛像。

明治31年(1898)に人物像は高村光雲(たかむら こううん)、薩摩犬「ツン」は後藤貞行(ごとう さだゆき)の制作で設置。

西郷隆盛(文政10年(1828)〜明治10年(1877))は、武士(薩摩藩士)、軍人、政治家です。薩摩藩の藩主であった島津斉彬に抜擢され西郷はリーダーとして活躍します。禁門の変(長州藩勢力が会津藩主・松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件。戦火により約3万戸が焼失)をきっかけとして、西郷隆盛は薩摩藩の軍隊を率い長州藩の軍隊と戦い勝利します。その後、坂本龍馬の仲介で薩摩藩と長州藩が薩長同盟を結ぶ。そして江戸幕府の勝海舟と交渉し江戸城の無血開城に力を尽くします。岩倉使節団が欧米視察中に西郷隆盛は留守政府を任されました。そして征韓論(武力をもって朝鮮を開国しようとする主張。西郷は遣韓使節として自らが朝鮮に行き話し合うつもりでした)を唱えますが、日本へ帰国した岩倉使節団の大久保利通らに意見を退けられたため、明治政府をやめ鹿児島へ戻ります。そして西南戦争(日本国内で最後の内戦)を起こし、ついには城山にて自決します。

さて銅像。有名なのが西郷の妻である糸子さんの銅像を見た一言です。
「うちん人は、こげんじゃなか」
これが顔のことを言ってるのか、服装について言っているのか。写真を撮られることが嫌いだった西郷さんの姿は謎のまま。

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小松宮彰仁像。

明治45年(1912)に大熊氏廣(おおくま うじひろ)の制作で設置。
小松宮彰仁親王(こまつのみや あきひとしんのう/弘化3年(1846)〜明治36年(1903))は、日本の皇族、陸軍軍人。北白川宮能久親王の実兄です。戊辰戦争では、奥羽征討総督として官軍の指揮を執り、佐賀の乱においては征討総督、西南戦争にも旅団長として出征。皇族も軍務に就くことを奨励し、日本赤十字社、大日本水産会、大日本山林会、大日本武徳会、高野山興隆会など各種団体の総裁も務め、皇族が公務とする社会活動の基礎を作りました。日本赤十字社の前身は西南戦争時の救護班である博愛社。

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ボードワン像。

昭和48年(1973)に上野恩賜公園100年を記念し設置。しかしあろうことか、弟(駐日オランダ領事)の写真をもとに制作されたもので、平成18年(2006)にやっと本人の銅像が林昭三(はやし しょうぞう)の制作で設置されました。
アントニウス・フランシスカス・ボードワン博士(1820〜1885)は、1862(文久2)年、江戸幕府に招かれて長崎出島の蘭学医として来日、長崎や大阪、東京でオランダ医学を伝えました。明治政府樹立後、幕末の動乱で荒れ果てていた上野の山には当初、大学東校(現在の東大医学部)付属病院の建設計画が進んでいましたが、博士は恵まれた自然が壊されることを憂え、公園とするよう政府に提言したそうです。ボードワンは日本で初めて検眼鏡を導入。彼の持ち込んだ健胃剤を改良したものが、「太田胃散」「守田宝丹」となり現在も市販されています。興味深いこととして、明治政府の医学の分野はフルベッキの推奨でドイツ医学を導入することになるのですが、普仏戦争によりドイツ教官の来日が遅れボードワンが暫定教官になるいうことです。勘の良い人は面白いと思うことでしょう。また、前述した大村益次郎の治療にあたりました。

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野口英世像。

昭和26年(1951)に吉田三郎の制作で設置。
野口英世(明治9年(1876)〜昭和3年(1928))は、福島県猪苗代で生まれる。幼少期に大火傷を負い、苦学し医学を究め、黄熱病の病原体発見のためエクアドルに派遣され野口ワクチンを開発する。しかし後に英仏の研究施設から野口ワクチンは効果がないと報告を受けます。そして自身が黄熱病に患いガーナ共和国で51歳に死去。私生活は荒れており、紙幣に描かれていることや銅像になることには疑問も多い。ヒントはロックフェラー医学研究所に入ったことでしょう。そのことからノーベル生理学・医学賞の候補に3度名前が挙がりました。

という感じで、東京都心の銅像をたっくさん巡ります。
ツアーでは上記以外の小ネタもはさみながら、一体ずつしっかり解説を入れていきますので楽しみにして下さいね。


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池ヶ谷 誠 について

セブンヒルズアドベンチャー代表。東京近郊でアウトドアツアーを企画運営。MTB・トレイルランニング・シャワークライミングなどマルチにガイディングしています。1973年神奈川生まれ。
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