観光サイクリングは佐倉編。集合は京成佐倉駅になります。
南口の交番の隣にトイレ有り。
史上最強の力士と云われる雷電爲右エ門夫妻と一女の墓。
254勝10敗は大相撲史上の最高勝率です。1767年-1825年(59歳没)、身長197cm・体重169kg、得意技は突っ張り・寄り、だそうです。
墓地から少し離れた所に佐久間象山の筆による「天下第一流力士雷電之碑」。
むかし臼井上宿のこの場所に甘酒茶屋があり、妻になるおはんはそこの看板娘でした。晩年の雷電はしばらくここに住んだと伝えられています。
日蘭親善のシンボルとして1994年に建設された本格的オランダ風車リーフデ。メカニズム部分をオランダで製造し、オランダ人技師により造られた本格的な風車。日蘭交流の幕開けとなったオランダ船リーフデ号にちなみリーフデ(友愛)と命名されました。
風車といえばオランダ。海抜より低い場所が多いオランダでは、内陸に流れ込んできた海水を汲み上げて堤防を超えて川に戻すために風車が発展しました。現在のオランダは300台ほどだそうですが、1850年頃は約10,000台の風車が活躍していたようです。日本において風のみを動力として稼働する風車は千葉県佐倉市「デ・リーフデ」(水汲み風車)、宮城県登米市「白鳥」(粉ひき風車)、山口県周南市「ゆめ風車」(粉ひき風車)の3台で「風車3姉妹」と呼ばれ、その他の風車は観光用に電気で回しているそうです。
風車の裏側。風を正面で受けないと風車は上手く回りませんので、ブロックにチェーンをかけ、巻きつけることで風車の向きを変えます。
内部も見学できます。
佐倉城に移動。入り口には臼杵の磨崖仏レプリカ。
堀田正睦(ほったまさよし)は幕末の佐倉藩主。幕府老中としてタウンゼント・ハリスと交渉しました。
日米通商条約を締結させたことで有名なタウンゼント・ハリス。
善し悪しは置いといて、我が国の開国を成し遂げたお二人です。
佐倉城は、江戸時代初頭に徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城。江戸時代には佐倉藩の藩庁が置かれました。
巨大な空堀を有するスケールの大きな城跡です。
天守跡。
明治6年(1873)の廃城令から少し経った明治17年(1884)に大日本帝国陸軍の連隊のひとつである歩兵第2連隊の本部が宇都宮城から佐倉城跡に移動。日清戦争、日露戦争、太平洋戦まで軍事施設として使われました。この「旧佐倉連隊脂油庫」は、機関銃を手入れする油を保管していました。
角馬出し空堀。お城の出入り口を守るためのもの。
佐倉城から雰囲気良い「ひよどり坂」を登り武家屋敷へ。
旧河原家住宅、旧但馬家住宅、旧武居家住宅の3棟の武家屋敷が保存公開されており、3棟とも江戸時代後期の建築で佐倉藩士が暮らしていました。
内部も公開されていて佐倉の武士の生活様式を垣間見ることができます。
旧武居家住宅だけ現在は銅板葺きの屋根になっています。
昼食は佐倉の名店「おかやま食堂」さんで。マラソンの小出監督が愛したトンカツ店で有名です。
ボリュームたっぷりのロースカツ定食がなんと¥1,050♪
大正7年(1918)、川崎銀行佐倉支店として建設、現在は改修工事を経て市立美術館エントランスホールとして使用。
順天堂の創立者、佐藤泰然(1804-1872)。
1835年より長崎に留学し3年間オランダ医学を学びます。その後、日本橋薬研堀に蘭医学塾「和田塾」を開き、のちに佐倉に移って蘭医学塾「順天堂」を開設。西洋外科に重点をおいた教育を行い、多数の優秀な医師を育てました。
佐藤泰然が佐倉に移った理由は特定できていませんが、佐倉藩主が蘭癖大名といわれた堀田正睦であったこと、家老の渡辺弥一兵衛の誘いがあったのも確かだそうです。
江戸時代の順天堂は全国各地から医学生が集まりました。教育方針はオランダ語の習得のみに専念するのではなく、蘭書を読み、西洋医術を実践することでした。明治時代に入り、新政府に招聘された佐藤尚中が門人を率いて東京に戻り、順天堂の本流を継承。一方、佐倉順天堂は千葉県の拠点病院として発展しました。
痛いのが苦手ではない私でもさすがに怖い・・・
↓酒々井(しすい)町HPより
『昔むかし、印旛沼の近くの村に年老いた父親と孝行息子が住んでおった。父親はたいそう酒好きでな、親思いの息子は毎日一生懸命働いて父親に酒を買っていたんじゃ。ところがある日、どうしても酒を買う金がつくれずに、とぼとぼと歩いて家に帰ろうとしていた。その時、道端の井戸から何とも良い香りが「ぷうん」としてきた。井戸の水をくんでなめてみると、それは本物の酒だったんじゃ。さっそく帰って父親に飲ませると、「こりゃうまい酒だ。ありがたい、ありがたい」とたいそう喜んだ。息子はそれから毎日、毎日井戸から酒をくんで飲ませたんじゃ。ところがこの酒は、親子以外の人が飲むと、ただの水になってしまうんじゃな。「きっと、孝行息子の真心が天に通じたに違いない」とみんながほめたたえた。この酒の話しが広まり、村もいつか「酒々井」と呼ばれるようになったということじゃ。』
お酒が出た井戸。いいっすね〜。
本佐倉城(もとさくらじょう)へ。
千葉氏後期の本拠地となりました。築城は文明年間(1469-1486)、廃城は一国一城制により元和元年(1615)。千葉氏の家紋「月星紋」がお出迎え。北方に香取の海が隣接、東西南北に伸びる街道の交差地点もあり、水上交通、陸上交通の要衝に立地していました。
千葉氏の守護神である妙見菩薩を祀る妙見宮。
千葉氏系の城のある周辺には多く存在します。
旧堀田邸。
堀田正倫の邸宅として明治23年(1890)に竣工。伝統的な和風様式で建築されていて、現存する明治期の旧大名家の邸宅として全国的にも数の少ない貴重な建物です。
座敷棟。
庭も美しい。
最後は蔵六餅本舗・木村屋さんへ。
銀座木村屋の2号店として明治15年(1882)にのれん分けをして創業。当時の陸軍のためにパンを製造していましたが、昭和40年頃からパンの生産をやめて和菓子が中心となりました。
名物の蔵六餅(写真左上)。
昭和29年に6つの町村が合併し市制施行を記念して作った和菓子。蔵六というのは「亀」の異称で、佐倉藩城主堀田家に古くから伝わる「蔵六石」をモチーフにしたそうです。お買い物後は駅まで戻り解散です。
歴史情緒溢れる佐倉の街をサイクリングいたしましょう。